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2017年 04月 14日
あるミュージシャンの肖像。

 一つの町のことを生涯歌い続けた歌手。それがチェット・サラシーノだ。


 彼は生まれ育った町のことを憎み、そして愛し続けた。少年時代に町を出て(どうやら中学校も卒業していないようだ)、ありとあらゆる仕事をして彼は生き続けた。なぜ町を出たかについては多くの評論が残っているが、大方の想像通り、両親との不和につきるようだ。日頃から義理の弟ばかりが寵愛されていると感じていた彼は、ある決定的な事件で、家を出ることを決意した。そして愛に満たされた「約束の地」を探すかのように、各地を転々とする人生を選択した。その姿をヘディ・ウエストの名曲『500マイル』の歌詞に重ねる向きも多い。


 だが、そもそも彼は、弾き語りの歌手には不可欠とも言えるギターを弾くことさえしなかった。彼が持つ自らの思いを伝える術。それは鍵盤を弾いて、歌をうたうことだけだった。


 ホーボー=放浪者だから、定まったすみかなどない。当然、ピアノを持つことは不可能だ。だから、彼は、たどりついた町の酒場に入り浸り、顔なじみになって隅で埃をかぶったアップライトピアノを使わせてもらう、というまどろっこしいやり方で演奏をし、興が乗れば歌をうたった。


 あのクソみたいな家で、唯一俺が安らいだのはピアノを弾いているひとときだけだった。


 晩年のインタビューで彼はそう振り返ったことがある。


 田舎町の名士の家で幼少期を過ごした彼には、自由に弾いていいピアノがあり、まともな練習をしなくてもショパンのピアノのための小曲くらいは上手に弾いて見せた。「勉強」「訓練」を極端に嫌がったため、音符はほとんど読めないが、音感が抜群に良かった。


 俺はクラシックは好きなんだ。ただ、誰がどの曲を書いたかとか全然わからないんだ。母親が日がな1日かけているレコードを聴きながら、その曲をピアノで弾くのが俺の日課だったんだ。


 しかし彼のうたう曲はクラシックとは似ても似つかぬ、まさにカントリーミュージックに分類されるべきものばかりだった。


 ティーンエージャーの頃からブルーカラーたちと交わる日々の中で、それらを耳にして、取り込む機会は自然にあったはずだ。だが、それらの音楽のどこに惹かれて、自らもうたうようになったのか、彼は生涯語ることはなかった。


 だってあんたいま俺の曲を聴いてたんだろ。それで十分じゃないか。


 晩年、半ばタブーとなっている質問を果敢に投げつけた若手の女性インタビュアーは、苦い微笑みとともにそう答えられた。


 多分、チェットにとって、カントリーミュージックは、掛け値なしに「それだけ」のものだったんだろう。いつのことかはわからないが、彼が何かを表現したい、と思った時、偶然、彼の耳に入ってきた。それだけのだったのだ。


 だが、耳に入った音を彼は大切に自分の中に取り込み、育て、独自のものにしてから吐き出した。


 チェットの代表曲『コヨーテの朝』は、センチメンタルなイントロから始まり、リーディングポエトのような静かで、滑舌の悪いつぶやきが続く。


 日々のほとんどをうっくつして/歩く老いたコヨーテは/びしゃびしゃぬれる草むらで/体をぶるりとふるわせた。/さあ、もう決めたんだ/歩き続けるしかないじゃないか/抜けてきた街のうねる鼓動を/雲の間にさす光のことを/向日葵咲く白い午後を/記憶の底にしまい続けて。


 彼にしては珍しく長い歌詞は、老いたコヨーテの回想に終始する。老コヨーテは言うまでもなく、チェット自身の投影だ。そして、捨ててきたはずの、帰ることのない、町の美しい光景をひたすら並べ立てていく。


 あるいはウディ・ガスリーのように、行く先々で女性と浮名を流し、即興で歌を作り続け、ついにはアメリカの準国歌とも呼べる曲を作る「要領の良さ」あるいは「器の大きさ」があれば、チェットはスターダムを駆け上がったかもしれない。実際、彼が残した曲は、数多くのミュージシャンにカバーされている。だが、不思議なくらいオリジナルの彼の存在にスポットライトがあたることはない。


 理由は簡単だ。彼の弾き語りは、一言で言えば、華がなかったからだ。しかも分類がしにくい。鍵盤の弾き語りでカントリーのヒットチャートを駆け上がるのは至難の技だし、だからといって、R&Bやポップミュージックとして聞くには、地味すぎた。だから、その良さを知るのは、音楽の玄人以外は、酒場の酔いどれたちだけだ。彼らだって翌朝にはチェットの曲なんて忘れている。そういえば、昨夜は随分懐かしい気分になって酒が進んだな、彼の曲はそんなくらいにしか取り扱われていない。


 でも悪くないじゃないか。夜に、涙を流して聴いてもらって、朝になったらさっぱりと忘れて気分良く仕事に出て行ってもらう。夜ってのは、昼の疲れを癒すための時間だ。俺の歌は、夜の歌なんだよ。


 そう語る彼も、また夜に自らの満たされぬ思いを癒してもらい続けた。一言でいえば酒癖が悪く、行く先々でトラブルを起こした。彼の音楽に惚れて、アルバムを作ろうと群がったレコード会社の担当者たちは、その延々と続く恨み節と時折振るわれる暴力(といっても彼はごく非力だったので、大した肉体的被害はなかったが)に辟易した。


 俺は、こだわりの人なんだ。こだわりってわかるかい。ひとつのことに執着するってことだ。俺は手放せないものがありすぎるんだ。ピアノだってそうだ。俺はギターなんてクソみたいな楽器全然認めない。でもさ、執着がなきゃ、愉快に毎日暮らせる。歌なんてうたわなくても済むくらいにね。


 女っけもなく、粗末なモーテルを転々とし続けたチェットは、コヨーテのように鬱屈はしていたが、ピアノが弾ける限り、絶望はしていなかった。いや、むしろ楽しんでいた。場末の酒場で、それまで騒いでいた酔客たちが彼の曲に聞き入り、終わるやいなや、一杯奢らせてくれと周りに群がるとき、彼は嬉しそうに微笑んでいた。その後酔って、ろくでもない結末になることも多かったのだが。


 晩年、音楽プロデューサー、ダン・コクチェフの粘り強く交渉に折れる形で残した、たった一枚のスタジオアルバム『サンフランシスコ』は、その投げやりな題名(ダンがレコーディングの少し前に遊びにいったという理由だけでつけたらしい)に相反して、深みのある曲が続く。


 最後の曲は、彼にしては珍しく、カバー曲だ。しかもフーの「A Quick One While He’s Away」というポップソングだ。ご存知の方も多いだろうが、これは複雑な幼少期を送ったピート・タウンゼントの実体験を元に作られた曲で、最後は”You are forgiven”、すなわち「あなたは許された」というフレーズの連呼で終わる。


 俺はね、結局許されたかったんだよ。母親にも、父親にも、故郷にも。でもできなかった。それは俺のこだわりのせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、いいじゃないか。俺は少なくとも、生きて、歌い続けた。


 チェットは、アルバムのプロモーションのインタビューでそう語っている。アルバムを出して、2年後、彼は病院のベットで息を引き取った。最後まで、故郷のバーモント州の小さな町を再訪することはなかった。


 

 


 

 


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by na2on | 2017-04-14 00:34 | よりみち。
2015年 09月 21日
ケネス、周波数はいくつなんだ

俺の脳はまるで働かないし、感覚は麻痺しているし、空気だってまるで読めない
リチャードは呆れ果てての撤退は無関心とは別物だって言ったさ
ケネス、俺にはどうしたって周波数がわからない

そう、お前は漫画の主人公みたいに笑う、目には目をってことだ
そしてアイロニーってのは若気のいたりみたいなもんだって言う
でも俺にはどうしたって周波数がわからない

そしてまるで鎧みたいに俺たちの期待を背負っているんだ
そしてヴァイオレントグリーンのシャツを着こなすんだ
でも俺にはどうしたって、周波数がわからない。

ケネス、周波数はいくつなんだ


♣ ♣ ♣


What's the frequency, Kenneth?


What's the frequency, Kenneth?
is your Benzedrine, uh-huh
I was brain-dead, locked out, numb,
not up to speed
I thought I'd pegged you an idiot's dream
Tunnel vision from the outsider's screen
I never understood the frequency, uh-huh
You wore our expectations like an armored suit, uh-huh

I'd studied your cartoons, radio,
music, TV, movies, magazines
Richard said,
"Withdrawal in disgust is not the same as apathy"
A smile like the cartoon,
tooth for a tooth
You said that irony was the shackles of youth
You wore a shirt of violent green, uh-huh
I never understood the frequency, uh-huh

"What's the frequency, Kenneth?"
is your Benzedrine, uh-huh
Butterfly decal, rear-view mirror,
dogging the scene
You smile like the cartoon,
tooth for a tooth
You said that irony was the shackles of youth
You wore a shirt of violent green, uh-huh
I never understood the frequency, uh-huh

You wore our expectations like an armored suit, uh-huh
I couldn't understand
You said that irony was the shackles of youth, uh-huh
I couldn't understand
You wore a shirt of violent green, uh-huh
I couldn't understand
I never understood,
don't fuck with me, uh-huh



https://youtu.be/fgE_Ffc4I8A
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by na2on | 2015-09-21 02:05 | よりみち。
2013年 07月 13日
She's Real
彼女はほんもの。

ぼくは、なんでもできたはずなのに。
もう、かしこくふるまうことができなくなった。
君は、ぼくに別れを告げたっていいんだ。
でも、ぼくは知っている。君のこころは、嘘を言っていることを。
だからおしえてほしい。
君をだきしめるために、何をしたらいいのか。

君がほほえむたびに、ぼくはこわされていく。
どうして、こんなことができるんだい?
ぼくのこころは、残酷ですらあったのに。
もう、いまは、君がぼくのルールをどんどんこわしていくんだ。
どうして、ぼくはこんなにも、君によりかかりたいと思っているんだろう。

今夜は暑すぎて眠れないから、一晩中歩くことにしたんだ。
ジェイミーが教会の階段に座ってビールを飲んでいる。
火災報知器が鳴る5時、リヴィングトンを歩いている。
イーストリバー公園で踊りながら、ぼくは6時になるのを待っている。

夜中の2時半に2番街にたどり着いたんだ。
85丁目は眠れない人たちであふれかえっていた。
でも、君はもう寝てしまっていたんだね。
ぼくは知っている。彼女は、ほんものだ。
ぼくの思いも、ほんものだ。
隣の街路に目を向けると、君の影法師が見えたんだ。
ぼくと一緒になって。


http://www.youtube.com/watch?v=11cn1oSwVPU

原曲は Kicking Giant
ニューヨークの伝説的なバンド。
ギター&ボーカルの Tae Won Yu は現在グラフィックデザイナーとして活躍中だそうです。

“She’s Real”

I could try anything
but I'm not as smart as I used to be
you want to tell
my heart goodbye
I know, I know, I know
your heart don't lie
tell me what I gotta do
to be good for you.

When you smile
you're breaking me,
I don't know how
you put this change in me
I used to be so cruel
but now it's you
who's breaking all the rules
tell me why I'd want to hold on to you.

Tonight it's much too hot to sleep
and I walked all night
Jamie's drinking beer on the church steps,
five o'clock fire alarm. 
Now I am walking down Rivington
East River Park
swinging on swings in the dark
I'm waiting for six o'clock.

I was sleepless second avenue
everybody's out tonight
85 at half past two
but you're sleeping by yourself...
She's real she's real I know my love is real
but from a block away
I can see your shades drawn down and black.
Be my baby.
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by na2on | 2013-07-13 20:18 | よりみち。
2013年 07月 12日
くそったれイングラン。
"Inglan is a bitch" Linton Kwesi Johnson

W´en mi jus´ come to Landan toun
Mi use to work pan di andahgroun
But workin´ pan di andahgroun
Y´u don´t get fi know your way around
Inglan is a bitch Dere´s no escapin it
Inglan is a bitch Dere´s no runnin´ whey fram it

ランダンにオレはやってきて
地下にもぐって仕事する
地下で仕事していると
まわりのことなんてまるでわからなくなる
くそったれのイングラン、逃げ場なんて、ない
くそったれイングラン、どこにも逃げらんない
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by na2on | 2013-07-12 22:51 | よりみち。
2012年 07月 24日
夜の街。
drivin on 9

夜の9時、ドライブに出たら
街頭に照らされた
わたしの影が見える
じぶん家を後にしよう

夜の9時、ドライブに出る
モーテルを越して
松の木を見ながら
あなたのことを思う

夜の9時、ドライブに出る
130号線を探していたのに
多分通り過ぎたみたい
次の曲がり角まで走ろう

夜の9時、ドライブに出たら
わたしはかわいくなっている
カーソン街の
小島でひとやすみ

夜の9時、ドライブに出る
お父さんはショットガンを持っているかな
でも、彼は絶対ほしくないって言っていた
もう少し走ろう

夜の9時、ドライブに出る
窓のそとを眺めながら
あなたのことがまだ好きかどうか確かめる
何が正しいのか、しばらく、考える

夜の9時、わたしはドライブに出る。

♣ ♣ ♣

元詩は、ブリーダーズ。
大好きなバンド、大好きな曲。
http://youtu.be/cLKUfBLJVqE

♣ ♣ ♣

ずっと前のこと、なんども夜の街を歩いた。
でも、結局なにもわからなかった。
ぼくは誰といたいんだろう。
その気持ちに正直に動くことに決めた。

今だって変わらないあやふやさ。
夜の街の通奏低音を感じながら、ぼくは、歩き続ける。
いくつかの秘密を抱えて。
ショットガンにおびえながら祈りを捧げる。
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by na2on | 2012-07-24 00:22 | よりみち。
2011年 10月 20日
秋の公園。
Why Not Smile

かたいコンクリートが
きみをこなごなにしてしまった

きみがきみのことを語るために
ぼくはなんだってしたのに
なんだってしゃべるのに
漫画に出てくるレンガの壁みたいにさ
きみのことばをきくために

ずっとかなしかったんだよね
すごく心配してきたんだ
さあ、ほほえんでよ
かなしかったんだよね
なんでわらわないの

なんだってしゃべったよ
きみのことばをきくためだったら
なんでわらわないの
ずっと、かなしかったんだろ
ずうっと、かなしかったんだね。

REM "Why not smile"
http://youtu.be/4HMQznKH3MM

原詩は、REMのマイケル・スタイプ。
もっともっと、示唆に満ちた歌詞のように思うけど、意訳という名のマチガイご容赦を。

このうたは、聴いていると、死にとても近いところで歌われているように感じる。
低い声で、かえることのないかもしれない言葉を、かけ続けながら、
静かに、あるがままを受け入れ、やがて、再生へとつながっていくうただと思う。

死んだ人のたくさんの語られる事のなかった思いは、
魂とともに天に広がり夜空の星となって、
生き残った人たちの、足もとを、ぼんやりと照らし出す。
そのあかりを頼りに、ぼくたちは、一歩ずつ、前に歩き出す。

先日、久しぶりに話した、ひとがいて、
そのひとが、とおくの町で、たたかっていて。
でも、そのひとは、自分のすべきこととして前を向いていて。

一度、死をとても近くにかんじて、そして、生き続けるひとたちがいる。

ぼくは、言葉をつむごうと思う。
たいせつなひとたち、そして、愛するひとたちが、笑うような、楽しい気持ちになるものを。
たいせつなものごとや思いを、つむいでいこう。

このうたは、マイケル・スタイプがつむいだ、やさしいうた。
おだやかな秋の公園を歩くみたいな、とても、やさしいうた。
さあ、歩き続けよう。
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by na2on | 2011-10-20 10:30 | よりみち。
2010年 05月 06日
みどりのある風景。
春の訪れとともに、すぐ近くのプロスペクト公園がソフィーお気に入りの憩いの場となった。思い出すのもなつかしいが、当時その公園は孤独な美しい金髪女性が安心して散歩できる場所だった。金色まだらの緑の葉陰から洩れ来る花粉にけむる光の中、草原に波打つ草の上にぬっとそびえたつニセアカシアやニレの大木の下では、ワトーやフラゴナールの風景画に描かれた田園の祝祭でも始まりそうな気配だ。仕事休みの日や週末にソフィーがすてきな昼食をたずさえて身を置くのも、こうした大樹の下だった。

『ソフィーの選択』ウィリアム・スタイロン著(大浦暁生訳)より

 ♣♣♣

 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、
さはやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生が
これから何千人の人たちに
本当のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
 そして林は虔十の居た時の通り雨が
降ってはすき透る冷たい雫を
みじかい草にポタリポタリと落とし
お日さまが輝いては
新しい奇麗な空気をさはやかにはき出すのでした。

『虔十公園林』宮沢賢治著より

 ♣♣♣

「おかしいな。」
 松井さんは車をとめて、考えかんがえ、まどのそとを見ました。
 そこは、小さな団地のまえの小さな野原でした。
 白いチョウが、二十も三十も、いえ、もっとたくさんとんでいました。クローバーが青あおとひろがり、わた毛ときいろの花のまざったタンポポが、てんてんのもようになってさいています。その上を、おどるようにとんでいるチョウをぼんやり見ているうち、松井さんには、こんな声がきこえてきました。
「よかったね。」
 「よかったよ。」
「よかったね。」
 「よかったよ。」
 それは、シャボン玉のはじけるような、小さな小さな声でした。

『車のいろは空のいろ』あまんきみこ著より
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by na2on | 2010-05-06 21:39 | よりみち。
2010年 04月 29日
公園遊具案内。
 東急の大井町線沿線は名公園が立ち並ぶ。二子玉川から大井町にかけて順に挙げて行くと、五島美術館の日本庭園、等々力渓谷、九品仏、洗足池、戸越公園、そして下神明駅前のタコの滑り台がある公園である。大井町に程近い下神明の駅はぼさっとした感じの小さな駅だが、その駅前の二葉公園にタコの滑り台がある。

 タコの滑り台は、それ専門のサイトがあるくらいで、一部の人には郷愁を誘う遊具らしい。ぼくは、自分が育った近所の公園にはタコの滑り台がなかったので、そういった懐かしさは感じないが、インパクトは大きい。町をぶらぶら歩いていて、突然小さな公園にタコがいると、感動すらする。街中にタコ。この意外性が嬉しいのである。

 ここのタコは親子で、大きなタコの後ろに小ダコがくっついている。以前CMで広末涼子がこのタコと絡んだそうで、そんな華やかな経歴に敬意を表して、タコ代表として紹介させてもらった。ちなみにタコの滑り台を一手に作っている会社の説明によると、もともと芸術家のタマゴが設計したもので、頭がついていないアブストラクトな遊具だったらしい。その後、もう少し子供受けさせようということでタコの頭をつけて、現在のタコの滑り台ができたようだ。東京23区内にも北東部を中心にまだ結構残っている。

 遊具で感動する物件は他にもあるが、王子の飛鳥山公園の遊具は極めてレベルが高かったと思う。スーパーリアリスティックな象のライドや、巨大なお城の形をした滑り台は、ほぼ無意味とすら思える情熱的かつ正確なデッサンによって作り上げられ、時間によって貫禄をつけて、他を寄せ付けないレベルにまで行きついてしまっていた。現在改装されて、随分イメージが変わってしまったのが残念でもある。

 遊具というよりシチュエーションで味わい深いのが、赤羽の西側の高台に広がる赤羽台団地と桐ヶ丘団地の小公園群である。UFO公園、お化け公園といった奇天烈な名前を持つ公園には、コンクリートを練り固めた奇天烈なオブジェが置かれ、その脇に団地がのっそりと立っている(ちなみにシーソー公園というのもあるんだが、そこにはシーソーがない)。その時空が捻じ曲がったような空間にいると本当に時間が経つのを忘れてしまう。

 そして、遊具のメッカとしてその筋に(どの筋だ?)名高いのが西六郷公園である。住宅街に設けられたごく普通の児童公園が何故に有名なのか、ということは、行けばすぐにわかる。

 公園中にタイヤがばらまかれているのである。ブリヂストンとかミシュランとかダンロップが砂場に置かれ、更にタイヤで造ったロボットとか恐竜がそびえ立つ。ロボットはビバンダム君にも似ていて、スポンサーとか大人の事情を考える向きもあるだろうが、多分そんな事情はない。こうなっちまった理由は不明だ。

 インパクト大なヴィジュアルが展開されてはいるものの、ここは、昼間は子どもたちが遊び回り、夜のとばりが降りてくる頃は、高校生のカップルが、ベンチに座ったりもするごく普通の街の公園だ。

 でも、全国共通の甘酸っぱい光景の背後に、月明かりに照らされたタイヤの恐竜がたたずむ絵は、なかなかにシュールではある。特によそから来た人間にとっては。

 そんな西六郷公園の最寄り駅は、京浜急行の雑色駅か、JR、東急の蒲田駅である。雑色駅前には、京浜急行の他の駅と共通するゆるやかな空気の商店街が続く。特にものすごい名店があるわけでもなさそうだが、ごく普通の姿で各店舗がたたずんでいるところがいい。
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by na2on | 2010-04-29 06:33 | よりみち。
2010年 04月 22日
風が吹く場所。
 晴れた日に、海に面した人工庭園に行った。奇麗に刈り揃えられた芝生が植えられた池の周りを、ぼくは観光客と一緒にゆらゆらと歩いた。海水をひいた池の水面には陽光がきらめき、新緑が映し出される。その背後には、高層ビルの群れが屹立し、午後の光を反射している。

 美しく配置された箱庭のようなこの庭園の奥にある木立を入って、土手を登ると、もうひとつの池が現れる。表の明るさとは対照的に、人の気配のうすい池を、ぐるりと取り巻くように細くくねる道を歩いていると、いつの間にかひんやりとした空気がまわりに満ちていることに気づく。

 陽の光を遮る木立の中で、池はひそやかにたたずむ。波をたてない水面はその滑らかな肌に木立を映し込んでいる。かつては鴨猟のために作られたという池のほとりには、鴨を待つための小さな小屋が、今でも残されている。

 六角形の木組みの小屋に入って、池を見る。覆いかぶさるように茂る木々の枝を写し込む水面には、秘密めいた雰囲気が漂う。

 ここは、音を吸い込む池じゃないか。ふと感じる。思いつきのように頭に浮かんだ考えは、次第にぼくの中で故もなく確信へと変じていく。

 都市には、特有のノイズがある。車やエアコンといった数限りない人工物と同じく数限りない人々がそれぞれ出す音が集まってできた、単調で微妙にうねる通奏低音。

 その音は、風が運ぶ。都市に流れる風は、様々なものが発する音をひとつずつ集めて、町の中を駆け巡る。風が集めた音は、低く流れるベース音。そして風がビルや街路樹を通る時の音が、メロディーとなって音楽のようにも聞こえる。

 音を集めた風は、やがてその重みで動き回ることができないようになってくる。動けなくなった風は、とどまり、淀んでしまう。風が動き続いて、その場限りのうたをうたい続けなければならない。

 だから、たまったおりをかきだすような、音を抜く作業が不可欠だ。

 そのために、風は、東京をひとめぐりすると、この池の真上で収束して、吸い込まれる。そして、暗闇が支配する地下の通風管をたどって、音をふるい落として、新たな風として生まれ変わる。

 その目には見えぬ、空洞の太い管の中を束になった風が流れていく。音は、空洞の中でふるい落とされていく。ごうごうという轟音が暗い管の中に鳴り響く。

 しかし、この池で進められるものごとは、表面上は、静寂に支配されている。そして、水面下ですべてが無駄なくすみやかに行なわれていく。だから、そのことを知る人はいない。

 管は、海の向こうにある埋め立て地にぽつんと立つ、風車につながる。風は、そこから再び海に向け放たれる。

 風車の元の小さな小屋には、ひとりの風車番が寝起きし、風の様子を確かめ、風車の具合を調整している。余計な音が残っている風が町に流れても、風車の向きや強さを間違っても、あちこちに悪影響が及ぶ。最初はかすかな違和感がやがて大きなずれとなってしまう類いの悪影響だ。

 でも、風車番の腕は確かだ。彼は淡々と、決められた時間に風を見て、雲行きを見ながら、風車を調整していく。しゃべりたくなくてここに来たのか、ここに来たからしゃべらなくなったのかは、分からないが、無口だ。

 たまに風車の周りに作られた公園に遊びにきた人が話しかけても、彼は、最低限の言葉しか話さない。子供が興味を持つと、ポケットからあめ玉を出して、渡す。夜になると、ハーモニカの音がたまに聞こえる。多分彼が吹いているのだろう。

 池の脇に建てられた小さな木組みの小屋で、ぼくは、そんな想像をしながら実際に池に音が吸い込まれるありさまを目に浮かべる。すぐ脇の首都高速を走る車の走行音が、急に遠くからのやってくる音のように小さくなる。

 そして、海の向こうから流れてくる風のうたが、確かに聞こえるような気がして、一所懸命に耳をすます。

 からすが、かあ、と鳴いて、現実に引き戻された。車の音が耳に戻ってくる。そしてぼくは、歩き出し、町の中へ戻っていく。
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by na2on | 2010-04-22 02:06 | よりみち。
2010年 04月 15日
そこに青い鳥はいない。いるのはカモだ。
 公園は退屈な場所だ。

 ある日、あなたは公園のことを想像する。いい景色だろうな、行ってみたい、と思う。頭上の木々の枝越しに差し込む太陽はあなたの顔を照らすだろう。そよ風にゆれる葉ずれの音はあなたの心深くにある柔らかな部分をそっとなでるかのごときたおやかな音楽となるだろう。あなたは、ここのところの自らを振り返る。そして自分には、清潔で穏やかな時間が必要だと思う。公園で、自然のかすかな動きに心とめながらのひとときは自分をリフレッシュさせてくれるだろう。

 で、行ってみる。木々が繁茂し、池にはカモなどが泳いでいる。ああやっぱり心なごむ、1日ゆっくりと過ごそう。そう思ったあなたは、まずはと、公園をひとめぐりする。カモは泳いでいるし、木々の緑は目にまぶしい。思い描いたとおりの水と緑と小動物満載的な光景を見て、微笑とともに心を動かしてみて(命って尊いね、とか)、さて次は何しようとなる。

 ベンチに座ってみる。木々の緑は相変わらずまぶしく、カモは元気に泳ぎ回る。でもそれは先ほどから十分に確認しているような気がする。もう心躍らない。だんだん手持ち無沙汰になってくる。しかし、そんなこともあろうかと用意してきた本をポッケから取り出してみる。高尚な本である。間違っても「プロ野球、思わずうなるいい話」とか「黄昏流星群」とかではない。

 しかし不思議なもので、公園に来ると、本の内容は頭に入ってこない。というか頭に入らない本を持ってきたのだ、ということに気づくのにそう時間はかからない。そんな時に限って、あなたの携帯にはメール1本入ってこない。あなたは時計を見る。さっきから何度も見ているから、まだ公園に来てから1時間も経っていないことは判りきっている。帰りたくなる。日々の雑用を思い出し、たいていむしゃくしゃっとした気分になる。当たり前だ。それにくたびれて公園に来たのだから。

 ああ、いっそ喫茶店で本を読んだら楽しいだろうなと思う。いやむしろ居酒屋でビールを飲みたいなと思う。仲間を、と友人を呼び出すが、彼らの携帯はむなしく留守電に切り替わる。気勢をそがれたあなたは、重い足を引きずってもう1周公園を回る。カモの能天気な鳴き声がうらめしい。

 公園では根本的に何もすることがない。そこに青い鳥はいない。いるのはカモだ。暇の扱い方を知らない人たちがイメージ先行で来てもなすすべもない。

 公園に集う人は、その退屈をあるがままに受け入れた人たちだ。暇な時間を受け入れ楽しむことができる人たち。彼らこそ、真の遊び人である。げに公園遊びは難しき。

 なんだか、茶道剣道柔道よろしく、公園道があるような気分になってきた。
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by na2on | 2010-04-15 01:23 | よりみち。